The 42 Of Spaghetti

メモを交えて所有物を淡々と記録するログ

人生の満足度を最大化するためにやりたいことを減らしていく


人生設計を自分で考えられるくらいにはなったとき、その過程において、意識的かどうかはともかく、人はいろいろな楽しみや可能性を見つけ、そして捨てていきます。人生には限りがあるし、対費用効果も変わってくる。10代の1年と30代の1年と60代の1年の有効な使い方はかなり違うわけです。

その状況において人生への満足度を高めるために、無意識下の取捨戦略を明確化すること、つまりもっと真剣にやりたいこと(やるべきことではなく、やりたいこと)を削っていく戦略を行いたいなあと思っています。

これは簡単にいえば「目の前の食べきれない好物たちを片っ端から食べても全部は決して食べきれないから、食べれる量に好物を厳選しよう」というように、好物に順番を付けて、下位は切り捨てることと言えます。人生の折り返し年齢というのは、もう目の前の好物は食べきれなくて、でも好物は結構出揃った程度に食べ歩きはしたよね、という年齢なのです。これはbulldraさんのエントリ”ほぼ日手帳の転記作業で「時の扉」をくぐる機会に置いていく事物、持ち込む事物を仕分けする - 太陽がまぶしかったから”で自身の来年を見通していたときのこの言葉、

直感的な話ではあるのだけど、ぼくの人生はおそらく「折り返し地点」を超えてしまったと思う。体力の問題を考えたら精力的に活動できる期間はもっと短いだろう。だから、もう一生かかっても割り切れない事物に拘泥しても仕方がないし、時の扉をくぐるたびに身軽になっていく必要があるのだと思う。

に尽きます。

出揃った好物

「好物が出揃った」というのは自分の興味関心がそろそろ固まった(事が多いだろう)ということです。これは次第に新しいものが受け付けなくなりつつあるということで、次に追求していくものは新しさではなく、深めていくこと。新しい好物が出る確率は低いのです。大体一年前くらいにyumejitsugen1さんの記事”23歳で新しいファッションへの扉が、35歳で新しい音楽への扉が、39歳で新しい味への扉が閉じるらしい! - ICHIROYAのブログ”で訳されている記事だと、そうした開拓は遅くて40歳くらいとなります。

20歳のときに聴いていた音楽は、それ以降の人生でもずっと好きでいる。もし、35歳以降に新しいジャンルの音楽が現れたら95%の人はそれを受け入れることができない。
 舌にビアスをつけるというような新しいファッションへの扉が閉じるのは23歳、新しい味を受け入れることができるのは39歳まで。

好物と間食の区別をしていく

始めにやることで、かついちばん面倒なのがこれ。
食べきれない好物が目の前にあるとは往々にして、「特に好きでもないもの」も混じってます。これは意外に多い。

例えばなんとなくやってるゲームとか付き合いのみとか色々ありますけど、これらは嫌いではないので好物かもしれないしそうではないのかもしれない、とか悩んでいる時間ももったいないし、とりあえず食べ続けててお腹が膨れてきたころにふと気づくなんてことは日常ではよくあるけれど、あまりそれを繰り返したくはないです。

この区分、好物=やりたいことは、大体関連物への執着(所有及び消費)におおまかに比例すると考えています。
好きなことは大概モノになっているのが資本主義のこの世の中、自分がよく買うモノ・そのモノについての情報を得るのに費やす時間など、カウントアップすることは可能です。わかりやすくお金(時間を使う場合は、自分が稼ぐ単位時間を算出して、消費時間を金に換算)に換算して考えると少なくとも相対比較が行い易くなります。面倒であれば決め打ちで決めてしまえば良いと思います。で、僕は面倒なので決め打ちますが、迷うものについては試算をするのも悪くない。

所有ログで感覚的にものへの執着を測る

感覚的に言えば、僕がアップし続けている所有物ログでもその執着度合いはよくわかり、記事を書く際に写真を撮って簡単に加工する、モノの型番をネットで一回調べることは必ず行っているので、特に思い入れのないものは面倒に感じ、雑になったり、書かなかったりします。例えば手元にある工具のドライバーは画像加工の白抜きが意外と面倒そう(あれだけ雑な加工なのに!)という理由で、撮影すらされてません。一方、ボールペンの記事はさっさと書くわけですが、僕は確かにボールペンはドライバーの何倍かは拘っているのです。

好物の効能を考える

単純に注ぐコストの対費用効果(あるいは期待値が低いもの)を低いものを切っていけばよいわけです。ここでポイントなのがあくまで期待値として考えるということでしょうか。「音楽を聴く」のはコストは低いですが、リターンもそんなに高くない。で、そのうち飽きてくるので、段々リターンが見込めなくなります。でも得られるリターンは即時です。
一方、音楽を演奏することは練習することを含むし、それが例えば「ちょっとしたライブハウスでジャズのセッションに入って楽しめる」レベルだとリターンが高い(と想像できる)けど、そこまでのコストが非常に高いです。胃袋が膨らんでいく割に「おいしい!」と感じるかわからないという賭けになるわけですね。これを考慮しておきます。

結局欠けられるコスト(胃袋)の大きさは変わらないので、リターンを堅実に組み立てていくか、賭けにしていくかは自分次第。ただ、堅実にし過ぎると受動的になっていって、賭けになっていくと能動的に鳴り、他を圧迫する分シビアに組み立てを考える必要がありそうです。ちなみにこうした洗濯を早くから絞り、かつ成功した人は早くから成功したりしますね。アスリートはフィジカルな衰えを考慮するため、ピークが早く、決定も早い。

選択と集中のための「モノ減らし」

この記事、"選択肢を減らすことが時間を増やす - ミニマリストを目指すブログ"を読んで選択って大事だよねーと思ってから、自分の考えるシンプルな生活というものは何を理想としているのだろうか、ということで、物の数というよりは、不要な選択肢の排除によって、これから楽しく生きていくためなんだろうなあ、ということに気付きました。多分僕が思うミニマリストとはこうした選択の機会がどれもその人の人生にとって重要であるように研ぎ澄まされている人のことだと定義しています。

物を捨てること/選択の例

なので、モノを捨てていく行為とは、僕にとってものへの執着というより、そのモノが象徴する何かを捨てることになるかなーと、いうことです。モノは自信がコストを払う何かの象徴である、という考えです。もたない暮らしの本で言われてそう(もしくは前提になってそう)な浅いトロですが自分にとってのモノってそんな位置づけがしっくりきます。

例えば僕は現在ヘッドホンを2つ所有しています。ひとつはMDR-CD900STという古いけど定番のモニターヘッドフォン。主に音楽制作や録音に適しています。もう一つはHD600というやはり古いけど長らくヘッドホンリスニングのリファレンスモデルとされてきた代表モデルです。こちらは音楽鑑賞に適しています。

僕は「音楽を聴く」ことはしますが、「音質に拘る(オーディオを追求する)」ことはしません。そして、「音楽制作」は迷っています。もし音楽を作らないのなら、MDR-CD900STは必要ないのですね。なので、この所有が意味することは僕にとっては音楽制作をするかしないかになってきます。現実問題として、ヘッドホン一つで制作に影響は及ぼさない(なかったら買えばよいだけ)のですが、この考え方は幾つもの音楽機材(ハード/ソフト共に)にも当てはまるので、それらをz年分足せば「やらないので処分することは金額的にも収集の手間的にも結構なものに鳴り、後戻りしづらくなります。まあ、なので保留=とりあえず死蔵させるのですけど、それはしない、と。そうしたことを今年中には済ませておきたいです。

参考記事